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夕暮れの丘

[クリス!」
 彼が叫んだ時には、もう遅かった。
「何っ……!」
 背後から襲い掛かってきた毒グモの素早い動きに、咄嗟に振り返ったものの、剣を振るうことは叶わず、そのまま地面に叩きつけられる。
 その衝撃で右手からすっぽ抜けた剣は、どうあがいても届かない距離に虚しく転がってしまった。
「このっ!」
 剣を諦め、両手で毒グモの動きを止めようと四苦八苦するが、何しろ相手には足が八本もある。しかもこう言った昆虫類が実はあまり得意でないクリスは、つい手が鈍りがちになってしまう。
「くそっ、近すぎるな」
 素早く狙いを定めようとした彼が舌打ちをする。彼の武器はスパイク。動いている標的に当てるのは慣れているが、この状況で下手に撃てばクリスに当たってしまう可能性が高い。
「私はいい! 他のモンスターを!」
 必死に毒グモから逃れようともがきながらも、クリスは怒鳴った。まだ辺りにはモンスターが残っている。普段なら臆することなどない雑魚ばかりだが、今は体を守る騎士の鎧もなく、剣の下に共に戦う仲間もいない。
 あるのはこの身一つと一振りの剣。そして、素性の知れない道案内の男一人だけだ。
「はいはい。すぐに片付けてお助けしますよ、お姫様」
 軽口を叩きつつ、その道案内の男ナッシュは周囲のモンスターに標的を変える。正確に打ち出されるスパイクは、一投ごとにモンスター達を倒していく。
(……腕が立つのは確かだが、あの減らず口はどうも気に食わないな……)
 などと考えていたら、つい油断が生じた。その機会を待っていたかのように、毒グモの鋭い牙が、咄嗟に顔を庇ったクリスの左腕に深々と突き刺さる。
「うっ……」
 痛みに顔をしかめるクリス。しかし、さほどのダメージではない。
「このっ!」
 腕ごと地面に叩きつけるようにして、クモをようやく引き剥がす。しかし、その次の瞬間彼女の視界が大きく揺らいだ。
(なにっ……)
 空が一回転したな、と感じたときには、彼女の体は地面に倒れていた。
(くっ……毒か……)
 毒グモの名前通り、この平原に生息するクモは強い毒性を持っている。噛まれただけですぐ死ぬような猛毒ではないが、しばし体を麻痺させるだけの威力はあった。
 しかも、間の悪いことにいつもは持ち歩いている毒消しが、今日に限って袋に入っていない。
 そんな間にも、毒グモは倒れ伏すクリスの体に這い登ってくる。身の毛もよだつおぞましい感覚に思わず目を閉じるクリス。
(だから、クモは嫌いだ……)
 そんなことを思わず心の中で叫んでいると、空を切る音と、一瞬遅れて液体が飛び散る音がクリスの耳に飛び込んできた。
 更に次の瞬間には何かを蹴っ飛ばす音がして、体の上に感じていた毒グモの重みがふっと無くなる。
 恐る恐る目を開けてみると、そこには剣を握り締めて立つナッシュの姿があった。
「お前……」
 彼女の声に、ナッシュはおや、とクリスを見下ろす。そして剣を地面に突き立てると、腰を落として彼女に手を伸ばした。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
 ナッシュの手に引っ張られて、なんとか上体を起こす。その顔色が真っ青なことに気付いて、彼は眉をひそめた。
「毒をもらっちまったか。毒消しは切らしてるんだが……」
 腰のポーチを探り、すぐに応急道具を引っ張り出すと、彼はクリスの前に膝をついた。
「見せてみろ」
「手当くらい、自分でできる」
「またまた、強がりはいけないよ、お嬢さん」
 ちゃかしながらも素早くクモに噛まれたクリスの左腕を取って、袖をまくり始めるナッシュ。反射的に手を払おうとしたクリスだが、その動きを見事に封じてナッシュはてきぱきと噛み傷周辺を消毒すると、前置きなしに傷口に唇を当てる。
「なっ!何をする!」
 思わず飛びのこうとしたクリスだが、体が思うように動かないせいでそれも叶わない。
「何って、毒を吸い出すんだよ」
 当たり前だろうという顔のナッシュだが、クリスの方は真っ青だったはずの顔を真っ赤に染めている。
「自分でする!」
「無茶いいなさんな。ほら、興奮すると毒が回るぞ」
 彼の言う通り、怒鳴ったせいで頭がくらくらする。右手で頭を押さえて呻くクリスを尻目に、ナッシュは再び傷口に唇を当てると、毒を吸い出しては地面に吐き捨てた。
「……よし、こんなもんだろう」
 改めて傷口を消毒しなおし、手際よく包帯を巻く。傷そのものは大したことはないし、利き手ではないから不自由はしないだろう。
「……」
  まだ憮然としたままのクリスに、ナッシュはぱちりと片目をつぶってみせる。
「なんだ、別のところにキスして欲しいならそう言ってくれれば良かったのに」
「ナッシュ!!」
 耳を劈く怒声に、降参だとばかりに彼は両手を上げてみせる。
「冗談だよ、冗談」
「冗談に聞こえん!」
「冗談じゃない方がいいなら……おっと、やめとこう」
 今にも掴みかかってきそうな彼女の剣幕に、ナッシュは口を閉じた。クリスの方も、怒鳴りつけたことで息が切れたらしく、しばし黙って呼吸を整える。
「……なにはともあれ、礼を言う」
 ようやく心も静まったのか、改まって言うクリス。ナッシュはいえいえ、と冗談めかして大仰にお辞儀をしてみせる。
「姫様を救い出せることが出来てなによりです。もっとも、無傷でといかなかったのが口惜しいところですがね」
「姫様はやめてくれ。恥ずかしい」
 赤面しながら抗議するクリスの姿が妙に可愛らしくて、彼はつい笑ってしまう。
「これは失礼。騎士団長殿」
「それもやめてくれ。今ここにいるのは、ただのクリスでしかない」
 そう。彼女は騎士団の一員としてではなく、ただ父の手がかりを求めて旅する一人の少女でしかない。
 カラヤ族の戦士がいった言葉。ただ一つの手がかり、「炎の英雄」を求めて、彼女は身分を隠し、敵地であるグラスランドを旅しているのだから。
「そういえば……剣を使えたとは意外だな」
 その言葉にナッシュは苦笑する。
「ああ、あんたの剣を勝手に借りちまって悪かった」
 騎士の剣は特別なものだ。おいそれと他人に貸与するものではないし、まして普通の人間が振り回せるような単純な武器でもない。自在に使いこなすにはそれなりの修練を積まなければならないはずだが、この男はいとも鮮やかに剣を振るい、クリスを助け出してみせた。
「いや、それは構わないが……」
「こっちの武器じゃ、あんたを間違って撃っちまう可能性があったんでね。久しぶりに剣を使ったが、腕が落ちてなくてなにより、かな?」
 そういう彼の顔が、しかし言葉とは裏腹に自嘲めいた笑いを浮かべていることに、クリスは気付いてしまった。
「……何はともあれ、助かったよ」
 本人が喋りたがらないことには口出ししないのが、彼女の性格だった。あえて何も言わずに礼を言う彼女に、ナッシュは軽く頷いてみせると、さて、と立ち上がる。
「そろそろ日も暮れてくるし、行くとしますか」
 見れば、すでに西の空は朱に染まっている。もう少しすれば、夜の帳が辺りを覆い隠し、平原は夜行性モンスターの徘徊する場所となるだろう。そうなる前に、安全な場所で野営の準備をする必要がある。
「ああ。そうだな」
 そう言って立ち上がろうとしたクリスだが、毒が回っている為か体に上手く力が入らない。
「あれ?」
 かわいい声と共に地面へ逆戻りするクリスに、くすくす笑いながらナッシュは、まずクリスの剣帯から鞘を外し、続いて近くに突き刺しておいたクリスの剣を引き抜くと、軽く振ってから鞘に収める。
「なにをする?」
 首を傾げるクリスの前で彼は手早く自分のベルトに剣を固定しながら、
「こうしないと、動きにくいからね」
 とますます訳の分からないことを言いながら準備を終え、そして彼女の前にしゃがみ込んだ。
「?だから、何の真似だ?」
「歩けないんでしょう?」
 首だけで振り向いて言って来るナッシュの言葉に、ようやく背中に負ぶされと言われていることに気付く。
「必要ない!自分で歩ける」
「そうは見えないんですがね。背負われるのが嫌なら、抱き上げていきますよ?」
 冗談めかしていうナッシュに、思わずその光景を思い浮かべてしまったらしいクリスはかぁっと顔を赤くして、ぶんぶんと首を横に振る。
「それなら、大人しく背負われて下さい」
「……仕方ない……」
 渋々、いまだ痺れる両手を彼の首に回す。恐る恐る体を背中に預けると、ナッシュはよいしょ、とクリスの体を背負って立ち上がった。
「よいしょなんて掛け声が出るんじゃ、もう年だよなあ……」
 妙に悲しそうに呟くナッシュに、クリスは思わず笑ってしまう。その軽やかな笑い声に、ナッシュはむっとした口調で、
「笑うなよ。切実な問題なんだから」
 と言ってみせるが、その瞳は笑っている。
「ひとまず、あの丘の上なら安全だろう、ちょっと揺れるかもしれないが、我慢してくれ」
 そう言って歩き出すナッシュ。年だ年だとぼやいている割には、クリスを背負っても移動速度に衰えはみえない。
 彼女を支える腕の力も充分、安心感のあるものだった。
「……重くないか?」
「全然重くないさ。レディーはみんな、羽のように軽いもんだからな」
「またそんなことを……」
 手間をかけて悪いと思っているから聞いているのに、このナッシュという男は相変わらず軽口を叩いてくる。
 今まで彼女の周りには、こんなタイプの人間はいなかった。唯一パーシヴァルだけは時折軽口を叩いてクリスを苦笑させていたものだが、ナッシュのそれはパージヴァルのものとは比べ物にならない位、浮ついて聞こえる。
「はは、すまんすまん。まあ、女性に対して「お前重いぞ」なんて言ったら、雷が落ちるからな」
 妙に実感のこもる言葉に首を傾げるクリス。過去に何か嫌な思い出でもあるのだろうか。
 まあ、口の減らないこの男のことだ、女性関係では色々トラブルを経験しているのだろう。そう考えて、追及しないでおくことにする。
 しばらく無言のまま時が流れ、ようやく目星をつけた丘の上にナッシュがクリスを降ろした頃には、すでに夕焼けから夕闇へと空が塗り変えられていこうとしていた。
 丘の上に立つ木の根元に彼女をそっと降ろし、荷物を解いて野営の準備を始めるナッシュ。
 周囲の枯れ枝を集めて焚き火を起こし、手際よく携帯食糧を調理していくそのさまを、クリスはじっと見つめていた。
 騎士団も戦の折には野営を行う。その際には団員が協力し合って天幕を張ったり料理をしたり、焚き火の番をしたりして過ごす。
 料理上手のルイスが振舞う野戦料理を突付きながら、他愛も無い話に花を咲かせる。あの日々がもう、懐かしく思える。
「……クリス?大丈夫か?」
 気付くと、目の前にナッシュの顔があった。その手には湯気の立ったカップが握られている。
「いや、ちょっと考え事をしていただけだ」
 そう言って、差し出されたカップを受け取る。毒のせいで体力を奪われた身に、カップに並々と注がれたスープが染み渡る。
「そろそろ食糧も乏しくなってきたし、一度どこかで補給しないとな」
 自分の分をカップに注ぎ、クリスの隣に座り込みながらナッシュが呟く。
「そうだな……」
 カップを傾けながら相槌を打つ。ブラス城を出立してからまだそう日は経っていないが、急な旅立ちのためにろくな準備もせずに来た為、食糧も少ないが薬類や水も尽きかけていた。
「それを飲み終えたら、すぐに横になることだ。火の番はおれが引き受けよう」
 ナッシュの申し出に、クリスは素直に頷いた。早いところ体力を回復させておかないと、今後に響く。
 スープを飲み干し、ナッシュの投げた毛布に包まって木の根元に横になる。
 日は完全に沈み、藍色の夜空には星達が瞬き始めていた。
「そうだ、剣を返してもらえるか」
 横になって初めて、ナッシュに剣を預けっぱなしだったことを思い出す。
「おっと、そうだな」
 ナッシュは荷物と共に地面に置いてあったクリスの長剣を、彼女の枕元に置いた。剣士たるもの、身を休めている時でも武器は片身離さず持っているものだ。
 クリスは手を伸ばして剣をたぐり寄せると、ほとんど抱きしめるようにして体勢を整える。
 それを見てナッシュは肩をすくめて、まいったなという表情を浮かべてみせた。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。寝込みを襲ったりしませんよ」
「!……まったく、その減らず口は何とかならないのか?」
 一瞬本気で怒りかけたが、いつもの軽口だと諦めて怒りを収める。いちいち反応していては、相手の思う壺だ。
「かみさんにもしょっちゅう言われてるんですがね、これがウリなもんで」
 しらっと言葉を返して、ナッシュは勢いの弱ってきた焚き火に枝を足した。
 ぱちぱちと薪のはぜる音が響く。
 しばらく無言で焚き火の番をしていたナッシュだったが、眠りにつく様子のないクリスの気配を察して、ふと口を開いた。
「……眠れませんか?」
「……ああ」
 傷が痛むのもあるが、色々と考えることが多すぎて、頭が休まらない。
 父、そして炎の英雄。
 評議会や騎士団のことも、一時も脳裏から離れることはない。
 そして、自分が進むべき未来がどこにあるのか。
「……何か、話をしてくれないか」
 唐突にクリスは言った。今は、何も考えたくない。それには、別のことをするのが一番だ。
「話ねえ……どんな話がお望みかな?」
「なんでもいいさ。今は、あまり何かを考えていたくない……」
 こわばった顔つきのクリスに、ナッシュは苦笑を浮かべる。今のクリスの気持ちが、かつての自分に重なって見えたのかもしれない。様々な陰謀渦巻く中、妹のため、自分のために戦い続けた若かりし日の思い出。今もなお、胸の奥に残る苦い記憶。
「……昔は剣を使っていたんだろう?なぜ剣を捨てた?」
 なかなか話し出そうとしないナッシュに、クリスから話題が振られる。
「そうだな。昔はこれでも、二刀流の剣士だったんだ。家に代々伝わる二振りの剣……。ちょっと変わった剣でね。使いこなせるようになるまで、血を吐くような訓練を積んだよ」
 双蛇剣、グローサー・フルス。鞭のように伸び、しなる二振りの剣は、時には強靭な鋼の刃となり、時には獲物を狙う蛇となって相手に襲い掛かる。
「それほどの剣を、何故……」
 ナッシュはそっと空を見上げる。満天の星空は、見つめていると吸い込まれそうなほどに澄み渡っている。
 人は死ぬと星になる、とおとぎ話は語るが、それならあの男の星は、この夜空を飾る一つになっているのだろうか。
 ザジという名の、冷たい刃物のような男。両親を殺し、更に妹を利用して野望を達成せんとした、黒い月のガンナー。
「……まあ、色々あってね。呪われし剣なんて異名を持つ剣だったし、封印した方が身のためだと思ったのさ」
 ザジとの決着をつけた後、ナッシュは数々の記憶と共にグローサー・フルスを眠りにつかせた。
 願わくば、二度と世に出ることのないように。二度と、悲しい結末を引き起こすことのないように。
「そんな訳で、剣を振るうのは本当に久しぶりだったんだが……」
 身についた技は、そう簡単に消えるものではないらしい。今回はそれが役に立ってくれたが、いつこの両手が呪われし剣を求めてしまうのか。そう思うと、なんともぞっとしない話だ。
「それほどの剣技があれば、騎士団でもやっていけるだろうに」
 クリスの言葉に、おや? とナッシュは眉を上げる。今の言葉はお世辞なのだろうか。
 いや、冗談やお世辞が苦手な彼女のことだ、思ってもいないことは言わないはずである。
「それは、褒め言葉と受け取っていいのかな?」
「ああ」
「銀の乙女に褒めていただけるとは、光栄の至りですな」
「だから、それはやめてくれと……」
「それじゃ、失業したらクリスに雇ってもらうかな」
 そんなことを言って笑うナッシュに、クリスは小さくため息をつく。
「心にもないことを……」
 恐らく、この戦いが終わったら彼は行ってしまうだろう。風のように、音もなくどこかへ吹き過ぎていくのだろう。
 彼には彼の道があり、クリスにはクリスの未来がある。それが交差しているのは、恐らく今、この時だけ。
「……もう眠れるか?」
 やさしく尋ねてくる彼に、クリスは頷いて毛布を頭から被る。
 その頭をそっと毛布の上から撫でて、ナッシュは小さくおやすみと呟いた。
 明日のうちにはダッククランの村へ着く。そこで案内人を雇って、めざすチシャクランまではそう遠くない。
 彼女とのお忍び旅も、終わりが近づいてきていた。
「惜しいな……」
 純情でまっすぐな彼女をおおっぴらにからかえるのも、あと少し。
「もうちょっとでおちそうなのに」
「何がだっ!!」
 背後から投げつけられた剣をひょい、と難なくかわして、ナッシュは肩を竦めてみせる。
「やれやれ」
 このお姫様は、なかなか手ごわい相手のようだ。
 残りの道中も楽しめそうだな、とほくそえむ、ナッシュであった。

-完-


 ダッククランまでの二人旅、アムル平原は本当に、毒グモの出現率が高いんです(>_<)
 ナッシュはひらりひらりと避けてくれるんですが、クリスはやたら背後から噛み付かれて毒を食らってたんですよ(^_^;)
 しかも、つい毒消しを買いそびれてて、平原を歩き回る間、毒ステータスの脈動音なりっぱなし(^_^;)
 思わずナックリになってしまったんですが、ナッシエ同様結構好きなカップリングだったりします。
 まあ、ナッシュはからかい半分なんでしょうが、いちいちひっかかるクリスの反応が面白くて、ついやめられないって感じで。


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